2014年2月21日金曜日

今だからこその岡村靖幸(前編) ――バブル世代の「どぉなっちゃってんだよ」編




 ポップスに限らず、世間の至る所に〈あるがまま〉原理主義が広がって久しい。自分らしく生きていきたいという歌詞が愛され、書店の平積みには無理をせず生きていくためのハウツー本が並べられている。誰もが自分らしく無理をせず、頑張らずに生きていきたい。思い切って、一億総あるがまま社会、と言い切ってしまいたいくらいだ。しかしこういった〈あるがまま〉原理主義の裏で、恐らく周りの人に受け入れてもらえないであろうありのままの自分をひた隠しにし、無理をして別の自分を作り生きている人がいるのも事実であり、それ以上にあるがままで生きている人々のシワ寄せを受けている人ももしかしたらどこかでこっそりと生きているかもしれない。〈あるがまま〉原理主義は、飾らない本来の自分を見せても誰からも愛してもらえるだろうと思っている人のためにある言説なのだと僕は思っている。それに比べて、しっかり化粧をして小奇麗な服に身を包み、他人もしくは自分のために自らをばっちり整えた上で「ナチュラル系」を称する女性向けファッション誌の方がよっぽど好感が持てる。理想と現実のギャップに悩む人々に、誰もが、今のままでいいじゃないか、と言う。違う違う、そうじゃない。あるがままの君が好きといくら言われても、あるがままの自分を、自分自身が好きになれないことが問題なのだ。このご時世、ナチュラルな自分が好きになれない人はどうやって生きていけばいい。

 今から20年以上前に生み出された岡村靖幸の楽曲に僕が惹かれたのは、そこには一切の現状肯定が存在していなかったからかもしれない。彼の楽曲で描かれる登場人物たちは、誰もが理想と現実のギャップに身をよじり、それでも理想とする姿に自分を近づけるために虚勢を張ることを厭わなかった




 岡村靖幸がデビューして音楽活動を活発に行なっていた時期、1980年代後半から91年にかけて、日本はバブル時代と呼ばれる、モノと理想を追い求めて誰もが目をギラつかせている時代であった。このバブル世代の女性が男性に求めたのが、かの悪名高き〈三高〉である。当時の男性の構成要素で重要だったのは〈高学歴〉〈高収入〉〈高身長〉の三点、つまりステータスがものを言う時代であった。〈三高〉は女性から男性に向けられた一種のハードルであったが、これを男性目線で語り直すなら、ステータスの足りていない男性は舞台に上がることすることすらできない時代であったとも言える。女性が男性に理不尽な要求をすることは今にはじまったことではないが、当時の要求は現代ほどの多様性はなく、皆が同じような男性の理想を追っていた時代であった。〈男性かくあるべし〉という完全な理想像が存在し、全員が同じ場所へ向かっていくのである。

 そんな世界には当然、理想の姿を手にすることができない人間もいた。いや、明確な理想の姿を目の当たりにしていながらそうなれない男性がほとんどだったのではないかと思う。女性は全員が同じような理想の男性を追い求め、現在のようにありのままの自分を肯定してくれる風潮も存在しない。時は美男美女の俳優・女優ばかりがキャスティングされるトレンディ・ドラマが次々と放送されている時代だ。男性は誰もが、手に入らないかもしれない〈三高〉を追い求めるしか「男女七人夏物語」に自らの名を連ねる方法が無かったのである。そんな、人々が同じ理想を見ていた時代に岡村靖幸が人気を博したのは、理想の姿をどうしても手にすることのできない男性の姿をありのまま表現したからだろう。楽曲の登場人物たちは、こうなりたいのになれない、そんな理想と現実のギャップに頭を抱え続け、そこに耐えられなくなった瞬間に「どぉなっちゃってんだよ」と歌いだすのである。「どぉなっちゃってんだよ、人生頑張ってんだよ」と大声を出しながら、あのダンスを踊るのだ

 しかし、岡村靖幸の楽曲が幾多のポップスと決定的に異なっているのは、彼がバブル期に生きてしまった男性の苦悩をただ歌っている点ではない。「どぉなっちゃってんだよ」と歌う男は、未熟な自分を許そうとはしないし、その怒りを時代に向けることもない。最後には「ベランダ立って胸を張」るのである。岡村靖幸は、理想と現実のギャップにさらされながらそれでも虚勢を張って生きることを肯定してみせたのだ。彼の楽曲は、理想の姿を手にすることはできないけど手にしようとする、あたかも手にしたかのように無理して振舞っている男たちの楽曲だった。



 バブル崩壊以降、90年代が進んでいくにつれて岡村靖幸が以前ほど聴かれなくなっていったのは、彼が音楽シーンからフェードアウトしたこともあるが、〈男性かくあるべし〉という理想像が以前ほど語られなくなったことも少なからず影響しているだろう。もちろん、理想像は未だ健在だと認めざるをえない現状もあるが、その一方で理想像から外れてしまった男性の姿も同じく一般化していったのだ。地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災の起きた1995年、しがない勤め人の姿を歌ったH Jungle with t「WOW WAR TONIGHT」が大ヒットした。大澤真幸は『不可能性の時代』において、高度経済成長期、バブル景気以降のメディアの創りだす虚構の理想像を誰もが追い求める「虚構の時代」は1995年で終了したとしているが、バブル崩壊以降、景気回復の兆しが一向に見えない1995年に「WOW WAR TONIGHT」が歌ったのは、虚構が崩壊したあとの日本の姿だった。それから20年近く経った現在の日本には誰もが思い描くような理想の姿は存在せず、それぞれがそれぞれの幸せを追い求めた結果到達したのが、何も持っていない自分自身を肯定してくれる〈あるがまま〉原理主義の支配するディストピアだ

 理想と現実のギャップに頭を悩ます男性の姿は、今や取り立てて語る必要のないものになってしまった。誰もが、あるかどうかもわからない理想の自分を求めて右往左往する時代である。〈男のほうが女よりも女々しい〉という言説は言い得て妙だ。そういった男らしくなろうにもなれない男性の姿の一般化は、〈靖幸ちゃん的〉な伊達男の姿をポップスから消し去ることになる。無理をすることが忌み嫌われる時代だ。岡村靖幸の描く、無謀であっても常に理想の自分の姿を追い求める男性は、現代の男性の姿にはそぐわなかった。現在は理想を手にすることのできない人々に対して、それでええんやで、それって素敵やん、という時代になってしまった


text by Shun Ito
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後編・〈さとり世代の「ビバナミダ」〉編も近日アップロード予定。

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