2014年2月26日水曜日

今だからこその岡村靖幸(後編) ――さとり世代の「ビバナミダ」編

前編・〈バブル世代の「どぉなっちゃってんだよ」編〉はこちらから




 そんな中、昨年2013年の流行語に「さとり世代」という言葉がノミネートされた。出自には様々な説があるが、近年の若い人々が欲を持たなくなったことを揶揄して用いられる言葉である。僕自身も1990年生まれであるので、そんな人間がいわゆる〈昨今の若者〉論を語るのにはある種の難しさが付きまとってしまうが、アンケートによると、最近の若者、それも20歳前後の若者はモノや人間関係に対する欲求が無くなってきている、という結果が出ているようだ。物心ついた時から現在に至るまで不景気だ不景気だと言われて育ち、〈失われた10年〉と言われていた時代はいつの間にか〈失われた20年〉にランクアップしている。僕たちは失われた時代に生き、逆に失われていない時代に何が失われていなかったのかすら知らない世代である。さとり世代とはそんな不景気で将来の希望が持てない時代に育ち、たくさんモノを持つことも求めず、休日は金のかからない自宅周辺で過ごし、恋愛は面倒だから同性の友達と遊んでいればいいじゃん、といった発想を持つ世代を指している。「ゆとり世代」の次の世代を指す、と言われるなど解釈は様々だが、僕は「ゆとり世代」と「さとり世代」はほとんど同じ世代を指していると思っている。

 多くの方は気づいていると思うが、現在のさとり世代は多くの点でバブル世代とは正反対だ。彼らは所有を求めず、ステータスを求めず、人間関係、言ってしまえば異性を求めない。車の助手席に女の子を載せてスキーやサーフィンに出かけていくバブル期の男性と比較すると、さとり世代の人々は、ひょっとすると肩に小鳥でもとまるのではないか、といった印象がある。エネルギッシュなバブル世代に対して、さとり世代がさとりたる所以は、彼らがひたすら省エネな生活をしていることに由来している。リアルタイムを知らない僕がバブル世代の人間に対して酷い偏見を抱いているのかもしれないが、それを差し引いても二十数年で若者のメンタリティは、欲求の世代から無理をしない世代を経て、欲求しない世代へとなかなか大胆に変化してしまった。




 そんなエネルギーが空回りするのではなくエネルギーを使わないことがデフォルトとされる時代に、岡村靖幸が新曲を発表した。昨年10月にリリースされたそのタイトルは「ビバナミダ」、エレクトロサウンドが印象的な楽曲であるが、「我らにとって人生は」のメロディなど、岡村節は健在の恐らく多くのファンが求めていた場所のど真ん中をいくシングルである。

 先述したように、バブル世代を象徴するような〈靖幸ちゃん的〉な男性の姿は今や日本から消えてしまった。さとり世代の僕たちは、毎週末ディスコに足を運んで好みの女の子を見つけるや否やホイホイついていって一曲踊るようなメンタリティは持ち合わせていない。「ファミコンやって、ディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見てる」のは名曲「カルアミルク」の主人公だが、僕たちは、パズドラやって、和民に行って、誰もいないひとりの家でニコ動見てる世代である。岡村靖幸は「こんなんでいいのか」と自問自答するが、さとり世代はその問いに、だってしょうがないじゃん、と答えるだろう。恐らく僕もそう答えてしまう。

 ここで正攻法を用いるなら、青春時代に岡村靖幸を聴いていたバブル世代のファンへ向けた楽曲をリリースするだろう。ミュージシャンがファンと一緒に歳をとり、彼らに寄り添うように楽曲を作り続けることは珍しいことでは無い。普通であったら今までに岡村靖幸を聴いていない若い世代に向けた楽曲をリリースするよりも、〈靖幸ちゃん的〉な魂を共有している同世代へ向けた楽曲を作る道を選ぶだろう。しかし、岡村靖幸はそんなセオリー通りの楽曲リリースを行おうとしない。デビューから20年以上の時が経った今になっても、岡村靖幸はバブル世代へ向けてそうしたのと同じように、現在の若い人々に楽曲を届けようとする。

 「ビバナミダ」は、そのタイトルの通り〈ナミダ、万歳!〉というメッセージソングである。泣いていいじゃん、と繰り返し語りかける「ビバナミダ」は、うだつの上がらない自分を鼓舞するというよりも、省エネの生き方を刷り込まれた世代に感情の開放を促している楽曲のようだ。悩んでるなら言えばいいじゃん、人生なんて軽く考えちゃえばいいじゃん、泣いちゃえばいいじゃん。涅槃の域に達して、始まってもいない人生を理解した顔をして、達観しているさとり世代に、わかったような顔するんじゃない、と一喝するのだ。

 かつては男性の苦悩に寄り添っていた岡村靖幸は、現代の若者に対しては強くなれと語り掛ける。その二つの姿は異なったように見えるが、そこの根底に存在するものは同じである。バブル時代から時を経てなお2013年に岡村靖幸が歌うのは、20年前と何ら変わりはない、理想の姿を目指して自分自身に対して繰り返し行われる、これでいいのか、という普遍的な自問自答であった。時代が変わっても、岡村靖幸は大人になる一歩手前の人々のために歌う。これでいいんだ、と安い自己肯定をしているさとり世代には、バブル世代とはまた異なったメッセージを語りかける必要があったのだ。「ビバナミダ」は、さとり開く前に全力出して来いよ、という新しい時代の若者に向けたメッセージソングであった。



 世界に登場する小道具や登場人物のイメージから、岡村靖幸の楽曲は一昔前のものだと思われがちである。しかし楽曲で行われる自問自答は、リアルタイムに聴かれていた時代と同じくらいに現代の僕たちにも十分にリアルで、身に覚えがあるものとして行われるはずだ。

「こんなんでいいのか」。
…いいわけ無いんだよなあ。

 いつの時代も、岡村靖幸は自分を肯定せず、大いなる何かに向かって問い続ける。それは恐らく、いくら時が経って僕らがいい大人になり、世代が新しく入れ替わっても、誰もが常に行わなければいけない自問自答なのだろう。

 うん、それでは皆さんご一緒に。ビバ、ナミダ


1 件のコメント:

  1. ○○世代うんぬん、というのは、何百万人もいる集団を強引にレッテル張りしてるだけの暴言だと思います。私も1991年生まれですが、毎週馴染みのレストランで一家団欒していますし、海外旅行にもよくいってます。(もう南国は飽きました)来年から大学院で本格的研究生活に入りますもんで、野心?もみなぎってますよー。何が言いたいかというと、人それぞれ育ってきた環境が違うのにひとからげには出来ない、ということです。同世代同士、頑張りましょう。

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